ー聖農 高橋正作の生涯ー
小野小町出生伝説で知られる秋田県湯沢市雄勝地区は、
横手盆地の最南端にあり、宮城と山形の県境に近い。
いで湯が湧き、地酒が造られ、雪のような素肌の清楚な美人が多い。
だがここに、百七十六年前の天保四年(一八三三)秋田で四十万人のうち、
十万人が餓死したという未曾有の飢饉が襲った。
その時、三十歳の肝煎(村長)高橋正作は、
全私財をなげうって食糧を求め、
村人五五〇人余を飢えから救う決断をした。
私財を担保に資金を借り、
いち早く米穀を求めるため、幾晩も眠らず、血眼になって各地を奔走。
ついに食糧を得て、村から一人の餓死者も出さなかった。
折しも院内銀山には、食糧を求めて各地から難民が集まり、
その労働力で、大量の銀鉱石が掘り出された。
だが銀鉱石から銀を洗練するための燃料になる炭の生産が追いつかず、
炭不足で閉山寸前に追い込まれていた。
飢饉のため、炭焼きをする人々が衰弱し、
働けなくなっていたからだ。
このままだと秋田の重要な財源である院内銀山が危うい。
と同時に秋田の経済が破たんしかねない。江戸幕府も窮乏する。
そこで正作は、まだ元気な自分の村をはじめ、
周辺の村々に炭焼きをすすめ、院内銀山に炭を送ろうとした。
そして炭の請負契約を成立させるため、銀山や役所を何度も往復した。
時は初冬。
荒野で暴風雨にあい、草鞋が切れて、足から血が吹き出たこともあった。
だが正作は、ひたすら走った。
こうして炭の販売が行われ、銀山は復活し、日本一の銀産出量を記録。
秋田をはじめ、わが国の経済が潤った。
しかも長引く飢饉にあいながらも、人々は、炭を売った代金で生きのびた。
文久三年(一八六三)、歌人を志し家出した十九歳の石川理紀之助が、
この地で、六十一歳の正作と巡り逢い、その人間の大きさに感激し、
自らの人生の方向を決めた。
「自分は、弱い立場の民衆を命がけで救済した
正作翁のような農業指導者になりたい。
民衆を救う生涯こそが、歌人よりも尊い」と志を抱いた。
以来、理紀之助は正作から教えを受け、父のように慕ったという。
その後の理紀之助の足跡は、
窮民を命がけで救った師・正作の生き方に似ている。
七十七歳の時、理紀之助に懇願され、
秋田の勧業御用係(県の農業指導者)の筆頭として、
横手盆地を開墾させ、日本有数の米どころに変えた。
さらに県内をくまなく回り、農業全般にわたって
長年の豊富な体験に基づく実践指導に専念した。
著書や種苗交換会では、稲作や畑作、開墾、養蚕、飢饉対策など
を具体的に説明し、秋田県農業の近代化に貢献した。
広く全国に配布された著書『除稲虫之法』で農薬を否定し、
『農業随録』では、飢饉対策として食糧の備蓄を第一に唱えた。
現在一三二回を数える秋田県種苗交換会の勧業談会(談話会)には、
初回から十四回まで指導者として参加し、理紀之助を支えながら、
その土台づくりに心血を注いだ。
正作の子孫が暮らす高橋家には、
むつまじい師弟関係を伝える和歌の短冊が残されている。
「ふた葉よりかくはしき樹のかけしけり君はよそちの老の初花 正作」。
最愛の弟子理紀之助が四十歳になったのを祝った歌だ。
すると理紀之助が正作に賛辞を送った。
「雲ゐまてきこえあケたる此君ハ
あきたあかた(秋田県)の宝なりケり 理紀之助」
明治二七年(一八九四)、九二歳で没。
号泣する理紀之助が、県内九二カ所で、正作の追悼法要を行った。
正作の生涯は、何を語りかけているのか。
食料自給率が低いわが国は、外国から多くの農産物を輸入している。
だが、その農産物が減少したり、外国との関係が円滑にいかなくなった時、
食糧はどうなるのか。
食糧確保に奔走し、飢饉から命がけで村人を守り抜いた
正作の生涯から学ぶべきものは大きい。
秋田魁新報社刊『村守る、命かけても 聖農高橋正作 伝』より